Menu
テレサ・テン 「つぐない 」

1974年、21歳の時に日本での歌手活動を開始する。日本でのデビュー2作目となる「空港」が大ヒットする。第16回日本レコード大賞新人賞を獲得して日本でもトップ・スターの仲間入りを果たし、歌手活動も軌道に乗った。その後も香港を拠点に台湾や日本などアジア各地を行き来する多忙な日々を送る。
「つぐない」は有線放送を通じてじわじわと人気に火が付いて大ヒット、日本有線大賞など数々の賞を受賞する。

吉川晃司 「モニカ」

1984年の日本歌謡大賞最優秀新人賞、日本アカデミー賞新人賞など歌手と俳優の両部門で8つの新人賞を独占。翌1985年暮れにはNHK紅白歌合戦に出場した。
またこの年の始めに、デビュー1年目では史上2人目の日本武道館公演を行った。 (1人目は原田真二)

杏里  「悲しみがとまらない」

 幅広い層にウケてもらうようにと、角松が思う当時の歌謡ポップス界において旬の作詞家であった康珍化と作曲家であった林哲司に依頼し、彼らに「友達に彼氏を奪われてやるせなくなるうんぬん」という詞世界とそれに合わせた曲調を説き、角松自身はプロデューサーに徹したという。この戦略は功を奏し、チャート的には「CAT'S EYE」を凌げなかったものの、見事に連続ヒットを打ち上げた。          投稿者 showakayoさん有難うございました

一世風靡セピア 「 前略、道の上より」

「NHK紅白歌合戦」のオファーがNHKから届いた際にも、「劇男一世風靡として寸劇を披露している渋谷のNHK前広場からの生中継にしろ」との希望を出したが、あっさり制作側から拒否されたという話を、哀川翔が自著「俺、不良品」の中で書いている。メンバー内でも出るか出ないかで話し合ったが、出たい者が3人に対し、出たくない者が4人だったため結果的に出なかった。哀川は「あんとき、出ときゃ良かった」と語っている。1984年の『ゆく年くる年(民放共同版)』には出演した。            投稿者 kazekazekaze1さん有難うございました

チョー・ヨンピル 「釜山港へ帰れ」

1976年に『釜山港へ帰れ 』が韓国で30万枚を売り上げる大ヒットとなる。
1982年には日本でもデビューし、「釜山港へ帰れ」(CBSソニー発売)や「想いで迷子」(ポリスター発売)などがヒットした。1987年、『NHK紅白歌合戦』に韓国人歌手として初めて出場を果たし、1990年まで連続で出場した。



≪1984年(昭和59年)出来事=中期≫

05/09 グリコ製品に青酸毒物混入との脅迫状、グリコ製品の店頭撤去始まる。
05/12 放送衛星を使っての衛星放送、本放送が開始。難視聴地域の解消、高品位画像等のメリットが。
05/25 全国で発信機などを積んだ正体不明の気球が、この日までに三九二個発見される。
06/15 東京の百貨店でエリマキトカゲが日本初公開。
06/26 グリコ脅迫犯から終結宣言。
06/29 九州に豪雨、死者15人。
07/04 安倍外相、中国人・韓国人の名前を現地読みとするよう外務省に指示。
07/28 第23回オリンピック・ロサンゼルス大会。日本選手308人参加。




              「 リクエスト 」
         Buzz 「ケンとメリー ~愛と風のように~」
       
1972年6月、高橋信之のプロデュースで「BUZZ」を結成。高橋信之がCM業界で活躍していた縁で、日産スカイラインのCMソングを担当することになり、同年11月25日、同CMソングに起用された「ケンとメリー〜愛と風のように〜」でレコードデビュー。オリコンチャート19位まで昇るヒットとなり、33万枚を売り上げた。なお、CMバージョンはレコード化されたものとは歌詞が異なる。

         ちあきさんリクエスト有難うございました m(__)m


スポンサーサイト
  • -
  • -