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ザ・ピーナッツ「恋のバカンス」 1959年2月11日「第2回 日劇コーラスパレード」で歌手デビュー4月「可愛い花」でレコードデビュー。1959年6月17日から1970年3月31日までフジテレビ系の歌謡番組『ザ・ヒットパレード』のレギュラーに抜擢される。その後1961年6月4日から1972年10月1日まで日本テレビ系の人気バラエティー番組『シャボン玉ホリデー』でメイン司会を務めた。皆川おさむ 「黒猫のタンゴ」皆川おさむの叔母である皆川...

ロカビリー3にん男 『日本のポップスの夜明』ミッキー・カーチス、山下敬二郎(後にこの2人は渡辺プロに所属する)平尾昌晃と「ロカビリー三人男」として「日劇ウエスタンカーニバル」等で爆発的な大人気を博した。尾藤イサオ 「ダイナマイト」1961年アメリカのハリウッドに渡り翌1962年5月までハリウッドで勉強。帰国後の9月、フランツ・フリーデルをリーダーとするバンド「ファイア・ボール」の一員になり、東京都内のジャズ...

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由紀さおり  「夜明けのスキャット」大ヒットとなった「夜明けのスキャット」は、最終的には150万枚のミリオンセラーとなり、この年の暮れには「第20回NHK紅白歌合戦」で念願だったNHK紅白歌合戦初出場を果たす(以降1978年・第29回まで10年連続出場)。翌1970年には、「手紙」も6週連続1位、1970年度年間6位となる大ヒットになり、第12回日本レコード大賞の歌唱賞を受賞した。1973年には「恋文」で第15回日本レコード大賞最優秀...

カルメン・マキ 「時には母のない子のように」1969年に「時には母のない子のように」でデビュー。17歳とは思えないその妖艶な雰囲気と歌唱力、そして哀愁のある歌いっぷりが話題を呼んだ。「本当に親のいない子供にとっては残酷な歌」と言う批判の声があったものの、累計でミリオンセラーの大ヒット。この曲で第20回NHK紅白歌合戦への出場も果たす。ステージにはジーンズ姿で登場し、司会者に「ジーパンもステージ衣装になる時代...

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松尾和子とマヒナスターズ 「お座敷小唄 」1964年、和田弘とマヒナスターズが広島に巡業したとき、御大の和田弘がキャバレーのホステスが口ずさむこの曲を無断で採取、宿で寝ていた松平直樹を電話で呼び寄せて検討させた。和田らはドドンパのリズムに乗せてモダン化し、松尾和子を加えてレコーディング。作詩者不詳/寺岡真三編曲によって日本ビクターより発売されると東京オリンピックをはさんで大ヒット、レコード売り上げは250...

江利チエミ 「テネシー・ワルツ 」チエミの「テネシーワルツ」の大ヒットは「日本語と英語のチャンポン」というスタイルを用いたこともあり、それまで都市部中心でのブームであった「ジャズ」(当時の日本では洋楽を総称してこう呼んだ)を全国区にするにあたり、牽引役を果たした。また、後のペギー葉山、そしてカントリーの小坂一也、そしてロカビリーブームなど、日本における「カバー歌手」のメジャー化のさきがけともなった...

橋幸夫・吉永小百合 「いつでも夢を ・寒い朝」そのファンは、「サユリスト」と呼称される。1960年代を代表する人気映画女優で10年間で70本以上の映画に出演した。吉田正(作曲家)の門下生として、数多くのレコードを世に送り出している。早稲田大学第二文学部西洋史学専修卒業、学位は文学士(早稲田大学)。夫はフジテレビディレクター、共同テレビ社長、会長、取締役相談役を歴任した岡田太郎。三田明 「美しい十代」作曲家...

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島倉千代子 「東京だよおっ母さん」 1957年、19歳、「東京だョおっ母さん」が150万枚のヒット。映画化もされ、自ら主演する。この年初めてNHK紅白歌合戦に初出場(曲目は「逢いたいなァあの人に」。その後、1976年、1979年にも歌唱)、同じ年で憧れの美空ひばりと競演して生涯にわたり実妹のように可愛がられるようになる。1960年、22歳、美空ひばりと一緒に「つばなの小径・白い小ゆびの歌」を発表。同年、ひばりを抑えて初めて...