Menu

「誰よりも君を愛す」この曲で松尾和子と和田弘とマヒナ・スターズは翌1960年の第2回日本レコード大賞を受賞した。 またこの曲で松尾和子は1960年の第11回NHK紅白歌合戦に出場した。また1989年の第40回NHK紅白歌合戦には松尾和子と和田弘とマヒナスターズのコンビで出場し話題となった。曲が大ヒットした事もあって、映画化もされ映画は大映から1960年に公開された。  投稿者 prdlppさん有難うございました     デュエット...

「アンコ椿は恋の花」芸能好きの母親が、はるみが5歳の時から日本舞踊とバレエを習わせ、6歳の6月6日から母親自ら浪曲と民謡を教え始める。洛陽女子高等学校の当時の学校長の話によればいきなり「歌手になります!」と言って中退したそうである。当時似たような若者は多く、そのうちの一人としか思っていなかったが大成功した。在学当時から歌ばかり歌っていて成績はかんばしくなかったと言われている。「涙の連絡船 」1964年、「困...

「有楽町で逢いましょう」そごう社内での検討の結果、有楽町駅付近への出店が正式に決定したものの、有楽町の更なる活性化を目的に、1957年5月予定の「有楽町そごう」[2]開店(2000年9月24日閉店)に際し、当時そごうの宣伝部長であった豊原英典以下宣伝部により「有楽町高級化キャンペーン」を企画した。豊原は企画段階でアメリカ合衆国の映画「ラスベガスで逢いましょう」からタイトルを拝借して「有楽町で逢いましょう」とのキ...

  • -
  • -

「今日でお別れ」1968年に「誰もいない」で第10回日本レコード大賞歌唱賞、1970年には「今日でお別れ」の大ヒットにより第12回日本レコード大賞を受賞し、実力派シンガーとしての地位を確立。また、愛嬌のある笑い皺が特徴的な丸顔から、当時の人気音楽番組「夜のヒットスタジオ」の司会者・前田武彦さんに「3日前のハンバーグ」との珍妙なニックネームを付けられる。投稿者 korokorokokoroさん有難うございました「懐メロ歌謡曲 ...

「南国土佐を後にして」  1958年、ミュージカル『あなたの為に歌うジョニー』で芸術祭個人奨励賞受賞。翌1959年には「南国土佐を後にして」の空前の大ヒットで、ジャズ/ポピュラー界だけではなく歌謡界においても、その地位を不動のものにする。1960年、オーストラリア/ゼネラルテレビの招きで、テレビ番組『今宵のメルボルン』に1か月間レギュラー出演する。「ドレミの歌」同年の8月にはロサンゼルスの日米修好百年祭に日本人代...

  • -
  • -

「東京だよおっかさん」1957年、19歳、「東京だョおっ母さん」が150万枚のヒット。映画化もされ、自ら主演する。この年初めてNHK紅白歌合戦に初出場(曲目は「逢いたいなァあの人に」。その後、1976年、1979年にも歌唱)、同じ年で憧れの美空ひばりと競演して生涯にわたり実妹のように可愛がられるようになる。当時大卒サラリーマンの給料が1万円であったが、千代子は常に財布に2千円入っていた。1958年、20歳、港区高輪(北品川の...

  • -
  • -

越路吹雪 「愛の讃歌 」元宝塚歌劇団男役トップスター、シャンソン歌手、舞台女優。本名、内藤 美保子(ないとう みほこ)。旧姓の河野(こうの)より愛称:コーちゃん、コッシー。代表曲に『愛の讃歌』、『ラストダンスは私に』、『サン・トワ・マミー』、『ろくでなし』などがあり「日本のシャンソンの女王」と称された。『ラストダンスは私に』原詞では男性の目線で描かれ、男性が女性に話しかける歌詞になっているが、岩谷時...

  • -
  • -

「王将」  当時、なかなかヒットに恵まれていなかった村田のため、日本コロムビアのディレクターだった斎藤昇が村田と共に作詞家西條八十邸を訪れたことから始まる。当時、西條は美空ひばりの曲を書いていたため、「男の歌は作れない」と断られたのだが、村田が粘り強く西條邸に通い詰めた結果、ようやく詞を書いてもらえることになり、「吹けば飛ぶよな将棋の駒に」という文言が作詞された。始めの文言が完成した20日後には、全...