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林伊佐緒「真室川ブギ 」大正時代になり、町に鉱山が開発され(現在は廃坑)、大日本帝国陸軍真室川飛行場の建設工事が始まると、全国から集まった出稼ぎ労働者達の間で、「ナット節」の歌詞を卑猥に改変した「真室川花電車」が歌われるようになった美空ひばり「ひばりのマドロスさん」ひばりの楽曲の中で、最初に発表されたマドロス曲である。ひばりは横浜出身ということもあって、後に数多くのをマドロス曲を発表し、本楽曲をは...

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菅原都々子「アリラン哀歌 」青森県上北郡三本木町(現・十和田市)に生まれる。父は浅草オペラ歌手の河合丸目郎(まるめろう)で、後に作曲家となる陸奥明。ただ、当時の陸奥は故郷に帰って新聞記者をしていた。9歳の時にオーディションのために1人で上京させられて、その際に古賀政男に認められたことから「古賀久子」の名をもらい養女となる。鶴田浩二「街のサンドイッチマン」戦後派として登場し、甘さと翳りを兼ね備えた抜群...

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美空ひばり「津軽のふるさと 」喜劇役者・伴淳三郎の劇団・新風ショウに参加し、同一座が舞台興行を行っていた横浜国際劇場と準専属契約を結ぶ。この時、演出していた宝塚の岡田恵吉に母親が芸名をつけてくれるように頼み、美空ひばりと命名してもらう。横浜国際劇場の支配人だった福島通人がその才能を認め、マネージャーとなって舞台の仕事を取り、次々と“ひばり映画”を企画することに成功した。織井茂子「君の名は」『君の名は...

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江利チエミ「 テネシー・ワルツ」進駐軍のキャンプまわりの仕事をこなしていくうちに智惠美はドリス・ディの「アゲイン」などを習得し、ジャズ歌手への志向を高めていく。進駐軍のアイドルとなり、愛称は「エリー」となる[1]。芸名の江利チエミはこの「エリー」から母が名づけた(以下、「チエミ」と記述)。特にチエミをかわいがってくれた進駐軍兵士ケネス・ボイドからその後の「運命の曲」となる「テネシーワルツ」のレコードを...

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美空ひばり「あの丘こえて」戦敗間もない1945年、私財を投じて自前の「青空楽団」を設立。近所の公民館・銭湯に舞台を作り、ひばり8歳のときに「美空」和枝(母の提案)の名で初舞台を踏む。津村謙「上海帰りのリル」しばらくヒットに恵まれなかったが、1951年(昭和26年)に、「上海帰りのリル」(作詞:東条寿三郎、作曲:渡久地政信)が大ヒット(島耕二監督によって1952年に映画化/後に根津甚八がカバーする)。一躍大スター...

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